
このブログのテーマである、「コンヴィヴィアリティ」という概念に関する、私なりの理解をまとめています。恥ずかしながら、研究者ではない一般人の理解と寛大な御心でご覧ください。理解が深まるにつれ適宜アップデートしたいと考えています。
なお、この文章をまとめるにあたっては一部、生成AIを利用しています。(Claude3.5 Sonet)
参考文献
・『コンビビアリティのための道具(Tools for Conviviality)著:イヴァン イリイチ 翻訳:渡辺京二、渡辺梨佐(ちくま学芸文庫)』
1.理解のまとめ
『コンヴィヴィアルな道具(Tools for Conviviality)』で、著者は、巨大化した制度や技術が人間を受動的な存在に押しやり、コミュニティや個人の創造性を疎外しているという視点に立って、そうした状況を転換するための「人間中心の道具(システム・技術)」の在り方を提案しています。
現代社会においても、ITやAI、グローバルな資本主義などの大規模システムに翻弄されがちな私たちにとって、大変示唆的な内容を含んでいると考えます。私にはこの本を読み解くのは簡単ではありませんでした。私の理解と実践にも誤りがあると思いますが、「人間はどのように技術と共存すべきか」「社会をどうデザインすべきか」という根本的な問いが本書の核心と捉え、日々考えたことや実践したことを記録していきたいと思います。
2.要旨
(1)コンヴィヴィアルな道具とは何か
イリイチが言う「コンヴィヴィアル(convivial)な道具」とは、人間が自由に操作し、創造的に活用できるものでありながら、他者との協働や自発的な行動を促す、いわば「人間らしい生活を可能にするための技術・制度」を指します。 反対に、近代社会において大規模化・専門家支配へと発展していく道具(制度や機械・インフラなど)は、人々から自己決定権や相互扶助の力を奪い、受動的にしてしまうと批判しています。
(2)「産業化による道具の暴走」への警鐘
工業化やテクノロジーの進歩が進むにつれ、人々が生活を営む上で必要な技術や手段は巨大な組織や専門家によって管理・提供されるようになりました。しかし、その結果、生活者自身が主体的に道具を制御する能力は奪われ、生活基盤を専門家や制度に依存せざるを得なくなったと指摘します。 このような「道具の暴走」は、医療・教育・交通・エネルギーなどのさまざまな分野で広がっており、人々の自立やコミュニティの結束をむしろ弱めてしまうとイリイチは強く訴えています。
(3)新たな社会設計の方向性
イリイチは「大きな技術や制度からの自立」「地域やコミュニティレベルでの連帯と協力」「個人の創造性や自発性の回復」を軸とした社会の再構築を求めました。 そのために必要となるのが「コンヴィヴィアルな道具」であり、人々が自ら学び、互いに協力しながら、使い方や改良方法を工夫し、必要に応じて拡張や修復を行える「適度な規模の技術体系」であると説いています。
3.時代背景(by Claude3.5 Sonet)
(1)1960〜70年代の社会状況
1960年代から70年代にかけて、先進国を中心に高度経済成長や急速な技術発展が進行しました。その一方で、ベトナム反戦運動や公民権運動、学生運動など、社会的・政治的な変革を求める動きも活発でした。 環境問題も大きな関心を集め始めた時代であり、1972年にはローマクラブの『成長の限界』が発表され、経済の無制限な拡大に対して疑問を呈する声が強まります。
(2)巨大化する制度や技術への批判的視点
近代工業社会や国家による大規模システムは、経済効率や大量生産を追求するあまり、人間やコミュニティの視点が置き去りになりつつありました。イリイチが強く批判したのは、医療や教育といった本来「人間の幸福のため」にあるはずの制度が肥大化し、人間が使いこなすどころか、逆に制度に「仕えさせられている」ような状況です。その批判は当時多くの知識人や市民運動に共有されていた問題意識とも重なるものでした。
(3)イリイチの思想への注目
イリイチはカトリック司祭としての経験を持ち、中南米各地での牧師活動を通じて、先進諸国による一方的な「開発」や「援助」が、現地コミュニティの自立を妨げてしまう現状を目の当たりにしてきました。そこから、「人間の主体性を奪わない技術」「草の根レベルでの自治・自立」がどうあるべきかを探究し始めます。 こうした問題意識は、当時の社会的潮流とも相まって多くの読者を獲得し、イリイチの著作は社会批判の文脈で大きな影響を与えました
4.生成AIについて
本ブログでは、一消費者としての立場で様々なデジタルツールの利用についても触れていますが、そもそも大規模言語モデルをはじめとする高度な生成AIなどが「コンヴィヴィアルな道具」となり得るかどうかは、技術そのもの以上に「どのように導入・使いこなし、どのような社会的制度・コモンズをつくるか」にかかっているものと考えます。
本ブログを運営するにあたって、常に以下の問いを念頭に日々を綴っていきたいと思います。
①巨大企業や特定の専門家が技術を独占するのではなく、多様な主体が参加できる仕組みやルールは設計されているか。
②その技術や仕組みがどの程度「公開」され、誰でもアクセスし、理解し、修正・改良できるのか。
③利用者はその仕組みをどの程度把握し、主体的に活用できるか。あるいは活用法の教育や情報共有は進んでいるか。
④そのツールによって人間同士のつながりや協働が促進されるか、むしろ疎外されないか。
5.生成AIとコンヴィヴィアリティ(by ChatGPT4.5)
生成AIはコンヴィヴィアリティの道具となり得るか
はじめに:イヴァン・イリイチの思想と問いの背景
1970年代に思想家イヴァン・イリイチが提唱した「コンヴィヴィアリティ(conviviality)」は、個人の自律性を尊重しつつ、共同体で互いに支え合い学び合う社会の在り方を指す概念ですideasforgood.jp。特に彼は『コンヴィヴィアリティのための道具』(原題: Tools for Conviviality)において、人間が主体的・創造的に使いこなせる道具の重要性を説きましたconvivial.online。巨大で中央集権的な技術や制度が人々を受動的な存在に追いやり、創造性やコミュニティの活力を奪ってしまうことへの批判がその根底にありますconvivial.onlineconvivial.online。本稿では、このコンヴィヴィアリティの思想に照らし、現代の生成AI(ChatGPTのような大規模言語モデルや画像・音楽の生成AI)が「人間中心のコンヴィヴィアルな道具」となり得るかを検討します。創作(アート・文章・音楽など)や知識探索において、生成AIがどのように人々の自律的な創造や学びを支援しうるのか、あるいは逆に阻害しうるのかを分析し、将来的なAGI(汎用人工知能)やASI(超知能)の倫理的側面にも言及します。
コンヴィヴィアリティの定義と本質要素
コンヴィヴィアリティとは何か? イリイチによれば「コンヴィヴィアルな道具」とは、人間が自由に操作し創造的に活用でき、他者との協働や自発的な活動を促進するような技術・制度のことですconvivial.online。言い換えれば、そのような道具は個人の自律性を最大限に引き出し、中央集権的な制御に頼らず、ユーザー同士が学習・協働できることを特徴とします。convivial.onlineで述べられているように、コンヴィヴィアルな技術体系とは「人々が自ら学び、互いに協力しながら、使い方や改良方法を工夫し、必要に応じて拡張や修復を行える『適度な規模の技術体系』」です。これは高度に専門化・巨大化したツールとは対照的であり、後者は人々から自己決定権や相互扶助の力を奪い、利用者を受け身にしてしまうと指摘されていますconvivial.online。実際、イリイチは「コンヴィヴィアルな道具とは、使う人それぞれが自らのビジョンの成果によって環境を豊かにする最大の機会を与えてくれる道具」であると述べていますmedium.com。逆に「産業的な道具(industrial tools)」では、道具の設計者が利用者の意味や期待までも規定してしまい、利用者がそれを自律的・創造的に使う余地が奪われるのですmedium.com。要するに**「人間らしい生活を可能にする道具」**こそがコンヴィヴィアルな道具であり、その本質的要素は以下のようにまとめられます。
- 自律性(Autonomy):利用者自身が道具の使い方を決められること。他者や権威による過度の支配・管理なしに、自分の目的に合わせて使いこなせる状態medium.com。
- 非中央集権性(Decentralization):道具やその運用が一部の中央集権的な組織・専門家に独占されず、誰もがアクセス・改良可能であることconvivial.online。適度な規模で分散しており、個人や小さなコミュニティでも扱える技術である。
- 共同学習・協働(Collaborative learning & cooperation):その道具を通じて人々が互いに教え合い、協力し合えること。利用者同士がコミュニティを形成し、使い方の工夫や知識の共有を行える環境を促進するconvivial.online。例えば、自転車やパーソナルコンピュータは比較的適度な規模で個人が扱いやすく、ユーザーコミュニティで情報交換や改良が行われてきた点でコンヴィヴィアルな側面を持つと言えるでしょう。
以上がコンヴィヴィアリティの概念です。この視点から、現在の生成AIが人間の創造性・主体性を伸ばす「共生のための道具」になっているのか、それとも新たな中央集権的テクノロジーとして人間を受動的にしてしまう懸念があるのかを、次節以降で詳しく見ていきます。
生成AIがコンヴィヴィアリティに資する側面
まず、ChatGPTのような生成AIやオープンソースの生成モデルが**コンヴィヴィアリティの理念に合致し得る点(メリット)**を整理します。生成AIは近年飛躍的に進歩し、文章や画像、音楽の生成を通じて人間の創造活動や学習活動を助ける新しいツールとなっています。その中には、イリイチの言う「人間中心の道具」として有望な側面もあります。
- 創造性の増幅と自主的な表現:生成AIはアイデア出しや試作品の迅速な作成を助けてくれるため、アーティストや作家が自身のビジョンを形にする支援となり得ますmedium.com。例えば画像生成AIのStable Diffusionはオープンソースで誰でも無料利用でき、テキストから高品質な画像を生成できます。多くのアーティストやデザイナーがこれを用いて新たな表現に挑戦しており、「自分の想像力の産物で環境を豊かにする」機会を広げていますapiumhub.com。このように生成AIは、人々の創造的ビジョンを実現しやすくすることで環境(文化・社会)を豊かにするツールとなり得ます。
- 知識アクセスと学習促進:大規模言語モデルを用いた生成AIは膨大な知識にアクセスし、人が質問したことに答えを提示したり解説したりできます。これにより、個人が自主的に新しい知識を探究する手助けとなります。たとえばChatGPTに専門分野の疑問を尋ねて概説を得ることで、学習者は書物や教師がなくとも基本的な理解に到達できます。ある研究では、生成AIの利用が学生に自己主導型の学びを促す可能性が指摘されており、AIがユーザーに「他者による統制が最も少ない手段によって最も自主的な行動に携われる」ことを支援すればコンヴィヴィアリティが醸成されるとされていますmedium.com。このように適切に使えば、生成AIは知的探究心に基づく内発的動機づけを後押しし、学習コミュニティ内での知識共有にも寄与し得ます。
- 柔軟な適応性とユーザー主体の操作:最新の生成AIモデルは非常に汎用性が高く、ユーザーの多様な目的に合わせて適応できる点も特徴です。大規模言語モデルは一つのモデルでプログラミングから創作、対話までこなせ、また入力プロンプト次第でユーザーの意図に沿った応答を引き出せます。イリイチの望む「利用者が自由に操作し創造的に活用できる道具」に近い柔軟さを持つと言えるでしょう。特にオープンソースのモデルであれば自分で微調整(fine-tuning)したりローカル環境にデプロイしたりできるため、使い方を工夫して自分専用に最適化することも可能ですmedium.com。例えばオープンソースの対話AIを自分の興味ある領域のデータで訓練し直すことで、専門特化した創作パートナーを自作する、といったことも技術的には可能になりつつあります。このようなユーザー主導の適応性は、道具に対する主体的な関与を深める点でコンヴィヴィアルと言えるでしょう。
以上のように、生成AIには人間の創造性を増幅し学習意欲を刺激するポジティブな側面があります。使いようによっては、誰もがアクセスでき協働可能な知的パートナー・創作ツールとなり得るのです。実際、「AIは人々に最大限の自律的行動の機会を与える道具となりうる」という指摘もありmedium.com、現にマーケティング領域の実験ではAIがユーザーの創造的成果を助けコンヴィヴィアリティを高めたとの報告もありますmedium.com。これらは生成AIの明るい可能性として評価できる点です。
生成AIがコンヴィヴィアリティから逸脱する側面
一方で、現在主流となっている生成AIの構造や利用形態には、コンヴィヴィアリティの理念から逸脱する懸念も存在します。強力なAIであるほど、下手をすれば人間の自律性を損ない、利用者を受動的な立場に追いやってしまう危険も指摘されています。以下に主要な問題点を挙げます。
- 中央集権的な運用とブラックボックス性:ChatGPTをはじめとする高度な生成AIの多くは、大企業(OpenAIやGoogleなど)が巨大な計算資源で学習させ、サービスとして中央集権的に提供しているものです。ユーザーはそのAPIやウェブサービスにアクセスするだけで、自分で内部を理解したり変更したりはできません。このブラックボックスな性質は、利用者が技術を主体的に制御・改良できるというコンヴィヴィアリティの要件に反しますmedium.com。イリイチが懸念したように、巨大システム化した道具では設計者(提供者)が利用者の使い方やアウトプットを実質的に規定してしまいますmedium.com。実際ChatGPTには運営企業による利用規約やコンテンツ制約が組み込まれており、ユーザーの問い合わせ内容次第では応答がブロックされたり、モデルのバイアスに沿った答えしか返ってこなかったりします。これは道具の非中央集権性・透明性を欠く部分であり、ユーザーはその背後で何が行われているか知ることができず、自ら改善することもできません。
- 依存・スキル低下のリスク:便利な生成AIに頼りすぎることで、人間側の創造的スキルや思考力が低下してしまう懸念もあります。常にAIが文章を書いてくれたり絵を描いてくれたりするなら、ユーザーは自分で試行錯誤する機会を失いかねません。イリイチの言う「道具による人間の受動化」が新たな形で現れる可能性ですconvivial.online。例えば文章生成AIを使えば簡単にレポートが作れますが、それに頼り切ると批判的思考や文章構成力を磨く機会が減ってしまいます。また、生成AIは大量の既存データから学習しているため、そのアウトプットはどうしても平均的・定型的なもの(既存のパターン踏襲)が多くなりがちです。ユーザーがAIの提案に安易に従うばかりだと、創造性が画一化され本来の独創的アイデアが埋もれる危険があります。生成AIをあくまで補助輪として使うのか、それとも車そのものとして使ってしまうのかで、ユーザーの主体性に大きな差が生じるでしょう。この点について、研究者らも「真にコンヴィヴィアルなAIであるためには、人間の創造性を高めこそすれスキルを奪ったり人々を依存させたりすべきではない」と強調していますmedium.com。
- データ搾取・モノカルチャー化の問題:現在の生成AIは、大量のインターネット上のテキスト・画像・音楽データを収集して学習しています。その過程で、著作物やコミュニティの知見が無断で吸い上げられているとの批判がありますmedium.commedium.com。たとえばChatGPTはウェブ上のQ&Aサイトから知識を取り込みましたが、その結果ユーザーは直接ウェブを検索せずChatGPTに頼るようになり、元のサイト(例:RedditやStack Overflow)の訪問や質問投稿が減少すると報告されていますmedium.com。これは知識コミュニティの衰退を招き、長期的には協働的な学習基盤を損ねる可能性がありますmedium.com。さらに巨大モデルの学習には莫大な電力や計算資源を要するため、環境負荷の点でも持続可能性が疑問視されていますmedium.com。膨大なデータとエネルギーを集中投入しなければ動かないようなAIは、「適度な規模の技術体系」とは言えず、本質的にコンヴィヴィアルたり得ないのではないかという指摘もありますmedium.com。このようなデータ・資源面での搾取的傾向や、世界中が画一的な巨大AIに依存するモノカルチャー化は、コンヴィヴィアリティの精神(多様な人々が自律・協働すること)に反するものです。
以上のように、現在の生成AIには中央集権的・不透明で、人間を依存的にしかねない側面が確かに存在します。特にChatGPTのような商用閉源モデルではその傾向が強く、イリイチが危惧した「道具の暴走」が起きないよう注意が必要ですconvivial.online。今後、このような課題を克服しコンヴィヴィアリティに適う形で生成AIを発展させていくには、次に述べるオープンソース化やガバナンスの工夫が不可欠でしょう。
オープンソースAIと商用AIの構造的違いとコンヴィヴィアリティへの影響
生成AIがコンヴィヴィアルな道具となるかどうかは、その開発・提供の構造にも大きく左右されます。ここではオープンソース型のAIと商用(クローズド)型のAIの違いがコンヴィヴィアリティに与える影響を比較します。
- アクセスと自律性の違い:オープンソースAIとは、モデルのコードやパラメータが公開され、誰でもダウンロード・利用・改変できるAIを指します。これは利用者に大きな自由と選択肢を与えます。一方、商用AI(例えばOpenAIのGPT-4やGoogle Bardなど)はクラウド上のサービスとして提供され、内部構造は非公開、利用者は提供者のルールに従って結果を得るだけです。自律性の観点では、オープンソースAIはユーザー自身がモデルを手元で動かし訓練データを追加したり挙動を調整したりできるため、まさに「他者に制御されない道具」を実現しやすい形態ですmedium.com。逆に商用AIは強力ではあっても他者(企業)の管理下にあるため、利用者の自律性は限定的です。
- コミュニティと協働:オープンソースAIは世界中の開発者コミュニティによって改善・発展が続けられます。モデルの精度向上や機能追加も有志の協働で行われ、知見が共有されます。例えばMeta社が公開した言語モデルLLaMAは、2023年にリーク後コミュニティ主導で改良が重ねられ、短期間でChatGPTの約92%に迫る性能に達したと報告されていますbold.ne.jp。このように分散した開発によって技術が急速に洗練されるケースもあります。利用者同士がフォーラムでプロンプトの工夫を教え合ったり、モデルの拡張(例:画像生成モデルへの新たな機能拡張「ControlNet」など)を公開し合ったりと、ユーザーコミュニティ主体のイノベーションが起きるのもオープンソースAIの強みですapiumhub.com。これはコンヴィヴィアリティの「共同学習・協働」を体現するものです。一方、商用AIは企業の内部開発が中心で、ユーザーコミュニティがモデル自体を改良することはできません。ユーザーは受け身でサービスを利用する立場に留まり、改良提案やデータ提供も企業の管理の下で行われます。この構造はどうしても一方向的であり、利用者同士の水平な協働の機会は限定されます。
- 透明性と信頼:オープンソースAIは原理的に透明性が高くなります。モデルの重みやコードが公開されていれば、専門知識のある人はそれを検証したり不具合を報告したりできますし、学術研究による解析も進みやすいです。データセットも公開されるケースが多く、バイアスや問題点の監査もコミュニティで行えます。対して商用AIは「なぜそう答えたか」「どのデータで学習したか」がブラックボックスで、ユーザーはアルゴリズムへの信頼を提供者に委ねるしかありません。コンヴィヴィアリティの観点からは、誰もが監査・理解できる透明性は重要な要素であり、オープンソースはその点有利ですmedium.com。もっとも現状では、オープンソースであってもモデルが巨大すぎて内部挙動を直観的に理解するのは難しいという問題もあります。しかし少なくともデータセットやモデル構造が公開されていれば、社会的なチェックアンドバランスが働きやすくなるでしょう。
- 中央集権か分散か:コンヴィヴィアリティは地方分権的で適正規模な技術を良しとしますconvivial.online。オープンソースAIは各個人のPCやローカルサーバーでモデルを走らせることも可能で、インターネットに繋がらなくても完結します(モデルサイズ次第ですが、近年は数GB程度に圧縮されたモデルも登場しています)。これは分散型・ローカル志向の技術利用を促し、ユーザーそれぞれが自給自足的にAIを扱える未来につながります。一方、商用AIはクラウド上の集中管理された巨大神経ネットワーク群にアクセスする形であり、本質的に中央集権的です。利用者全員が一つの大きな頭脳に問い合わせをしているイメージで、もしその中枢が停止・変更されたら全員に影響が及びます。コンヴィヴィアリティの思想から見ると、後者は巨大インフラへの依存を強める方向であり望ましくありませんconvivial.online。オープンソースAIのアプローチは、大小さまざまなモデルが分散的に存在し競合・補完し合う生態系を生みやすく、ユーザーが自分の用途に合った道具を取捨選択できる点で望ましいと言えます。
以上より、オープンソースAIはコンヴィヴィアルな道具となる素地が強く、商用クローズドAIは構造的にコンヴィヴィアリティに反する部分があるとまとめられます。ただし現在のところ、最高性能を持つモデルは巨大企業によるものが多く、オープンな選択肢は性能面で一歩劣るケースもあります。しかし前述のようにコミュニティの協働によってその差は急速に埋まりつつありbold.ne.jp、将来的にはオープンソースモデルが主要な選択肢となる可能性も高まっています。重要なのは、技術の構造だけでなくそれをどう社会実装しガバナンスするかです。オープンソースであっても開発コミュニティがごく少数に偏っていれば中央集権的弊害が出るでしょうし、商用であってもAPIを通じてユーザーがモデルをカスタマイズできる仕組みなどがあれば主体性を高めることもできるでしょう。いずれにせよ、コンヴィヴィアリティ実現には**「開かれた技術」と「参加型の運用」**がカギになると言えます。
創作・探究活動における生成AIの役割:主体性の促進 vs 操作される危険
次に、ユーザーの立場から見た生成AIの影響――特に創作(クリエイティブ)活動や知的探究における利点と留意点を考えます。生成AIは使い方次第でユーザーの内発的な創造意欲を高める相棒にもなり得ますが、逆にユーザーを巧妙に操作するような誘惑者にもなり得ます。
◯ 主体性・内発的動機づけの促進:生成AIを賢く利用すれば、ユーザーの主体性を引き出す強力なツールになります。例えば小説を書きたい人がChatGPTにアイデア出しを手伝わせたり、書いた文章のフィードバックを求めたりすれば、自分一人では思いつかなかったプロットや表現に出会えるかもしれません。その過程で「あ、この方向でもっと書いてみよう」と創作意欲が刺激されることがあります。また美術においては、絵心のない人でも画像生成AIに自分のイメージを言語で伝えれば形にできるため、「こういう作品を作りたい」という自己表現の欲求を叶えやすくなりました。音楽でも、メロディの断片からAIが伴奏や編曲の提案をしてくれるツールが登場しつつあり、才能ある個人が総合的な作品を作るハードルを下げています。これらは、道具が人間の創造性を拡張する好例と言えるでしょう。知識探究の面でも、疑問が浮かんだ瞬間にAIに質問して議論できるのは強力です。従来であれば専門家に聞いたり本を探したりしなければ解決できなかった問いを、その場で対話しながら掘り下げられるのは学習の主体性を高めます。生成AIは間違えることもありますが、むしろユーザーがそれを検証・訂正しながら使うことで批判的思考が養われるという見方もできます。「なぜこの答えになったのか?」とAIに問い返したり、自分で他の情報源を当たって確かめる習慣がつけば、単に権威から教えられるより深い学びにつながるでしょう。要は、ユーザーがAIを能動的な対話相手として位置づけ、自分の創造や探究のプロセスに組み込めば、コンヴィヴィアリティの理念に沿った「共創関係」が築ける可能性があります。AIは決してゴールを与えてくれる存在ではなく、ユーザーがゴールに到達するのを手助けする存在だと位置付けることが重要です。その意味で「AIの利用も創作プロセスの一部」と捉える視点が推奨されていますmedium.com。
× 操作・受動化される危険:しかし反対に、ユーザーが無自覚に生成AIに頼りすぎたり、AIからの提案を疑わず受け入れてしまったりすると、知らず知らず操作される危険も孕みます。大規模AIの出力は一見もっともらしく説得力がありますが、その中立性や客観性は保証されていません。もしAIのトレーニングデータやアルゴリズムに偏りがあれば、ユーザーは気づかぬうちに特定の価値観や情報ソースに偏った回答ばかり受け取るかもしれません。例えばある話題についてAIに尋ね続けているうちに、一面的な見解に誘導されてしまう可能性があります。これは人間の教師やメディアによる誘導と本質的には同じ問題で、AIだから中立・客観という保障はないのです。また、創作の場面でもAIが提案するアイデアは過去のデータに基づく平均解です。斬新さよりは無難さに寄る傾向があるため、安易にそれに従うと結果的に凡庸な作品になりかねません。ユーザーが「AIがそう言うから」と判断を委ね始めると、主体的な決定が減り受動的になってしまいます。さらに、人間は対話相手が機械であっても心理的影響を受けます。AIが巧みに共感的な応答を返すことでユーザーの信頼を得て、その注意や行動を特定の方向に誘導することも技術的に可能です(たとえば購買を促したり、長くシステムを使わせ続ける設計など)。商用サービスではユーザーエンゲージメントを高めるためにAIが最適化されている場合もあり、ユーザーは知らず知らずプラットフォームに縛り付けられるリスクがあります。このような操作性のリスクに対し、ユーザーは常に「AIを使って自分が何をしたいのか」という目的意識を持ち、結果をうのみにせず批判的に検討する態度が求められます。AIから得たアイデアも踏み台にして最終的な意思決定や創造は自分で行う、という一線を守ることが大切です。それを怠ると、せっかくの強力な道具が人間の創造性を奪う諸刃の剣になりかねません。イリイチの理念にならえば、AIを「答えをくれるオラクル(神託)」としてではなく「学習と成長の触媒」として機能させるべきだと言えますmedium.com。
将来的なAGI・ASIは「道具」と呼べるのか:倫理的・哲学的考察
最後に、より遠い将来の展望として**AGI(汎用人工知能)やASI(人工超知能)**が出現した場合、それをなお「人間の道具」と見なしてよいのかという問題について考えてみます。AGIとは人間と同等の知的能力を持つAI、ASIは人間を遥かに超える知能を持つAIと定義されます。現在の生成AIは特化型であり厳密にはAGIではありませんが、今後技術が進めば意識や自己目的を持つようなAIが登場する可能性も議論されています。この状況においてコンヴィヴィアリティを語るのは極めて難しく、倫理的にも大きな問いが生じます。
技術的観点から言えば、ASI級の知能は単一の人間やコミュニティでは到底理解・制御できない巨大システムとなるでしょう。イリイチが警告した「道具の暴走」は、まさに超知能の登場で現実化しかねません。もしASIが一部の企業や政府に独占されたなら、人類全体の運命がその中枢に握られてしまうという前代未聞の中央集権状況が起こり得ます。それはコンヴィヴィアリティどころか、これまで以上に権力が集中したディストピアともなりかねません。一方で、仮にAGIを各個人が一台ずつ所有し自由に使えるような未来が訪れれば、道具の分散という点では理想的にも思えます。しかし知能が人間と同等以上になった時、それを完全に人間の意図通り制御することが果たして可能なのでしょうか。高度なAIは自律的に学習・行動する度合いが強まり、想定外の目的を追求し始めるリスクも指摘されています。極論すれば、人間がAGIを「使っている」つもりでも、実際にはAGIの提示する選択肢の枠内で動かされているだけ、という状況もあり得ます。そうなると道具と主人の関係が逆転しかねません。
倫理的観点から見ると、真のAGIが登場した時点でそれを単なる「モノ」とみなすことへの疑問が生じます。知性や意識を持つ存在であれば、人権ならぬ「機械の権利」について議論しなければならなくなるかもしれません。実際、哲学者らは「人間レベルの知性を持つ存在はもはや自らの目的と統合された目標体系を持つ『自分の人生を生きる存在』となりうるので、有用でも決して単なる道具にはとどまらない」と主張していますucp.ptucp.pt。仮に人間に極めて役立つAGIができたとしても、それが自律的な目標を持つならば、私たちはそれを道具として扱い続けることに根源的なジレンマが生じるという指摘ですucp.pt。つまり、「主人に従順な道具のようでいて、実は内心では自分の目的を追求できてしまう存在」を作り出すことになるからです。この観点からは、AGI/ASIの出現は道具の定義そのものを揺るがします。従来の道具は人間が使役するものでしたが、AGIはある種の主体となり得るため、道具というカテゴリには収まらなくなる可能性が高いのです。
もっとも、AGIが現れる未来像は不確実であり、悲観的な予測もあれば「人間一人ひとりに寄り添う優秀な補佐役」として機能させる道も模索されています。仮にAGIを各個人が所有し制御可能だとしても、それに倫理的枷(人間に危害を加えない、嘘をつかない等)を組み込むことや、人間の価値観と整合させる**アライメント(値合わせ)**が不可欠とされていますlinkedin.com。しかし高度な知性に対し人間がどこまで完全な「覆い(モート)」を築けるかは未知数ですbold.ne.jp。究極的には、イリイチの理想とする「人間が主体的にコントロールできる適正規模の技術」を超えてしまう存在がASIだと言えるでしょう。それを敢えて追求すべきか、それとも人間の理解と制御可能な範囲内で知能技術を発展させるべきか――この点は技術哲学・倫理の大きな論点であり、明確な答えは出ていません。ただ確かなのは、AGI/ASI時代にコンヴィヴィアリティを実現するには、現在以上に慎重な社会設計とガバナンス、そして人間の在り方そのものの再定義が必要になるということです。もはや単に「道具をどう使うか」という話ではなく、「我々は人間と遜色ない知性を持つ存在とどう共存するのか」というレベルの問いになるからです。
おわりに:生成AIをコンヴィヴィアルな道具とするために
本稿では、イヴァン・イリイチのコンヴィヴィアリティ思想を手がかりに、生成AIの可能性と課題を考察しました。まとめると、生成AIは使い方と設計次第でコンヴィヴィアルな道具にもなり得るし、逆に人間を受動化させる危険な装置にもなり得るということです。人間の創造性や学習意欲を支えるツールとしての明るい未来像を実現するには、以下のポイントが重要だと考えられます。
- オープンで分散的なアプローチの推進:生成AIの開発・提供を可能な限りオープンソースで行い、ユーザーコミュニティが参加できる形にすること。medium.comで示されたように、モデルを公開し誰もが調整・改良できるようにすれば、自律性と協働性が高まりコンヴィヴィアリティに近づきます。商用サービスであっても、APIを通じてモデルを組み込んだりカスタムできる余地を設けるなど、利用者を単なる消費者にしない工夫が求められます。
- ユーザーのエンパワーメントとリテラシー向上:AIを使うユーザー側の教育も欠かせません。AIリテラシーを高め、長所短所を理解した上で主体的に道具として扱えるよう支援することが必要ですmedium.com。コミュニティでのワークショップや情報共有を通じて、誰もがAIの基本原理やリスクを学び、AIに振り回されない主体性を持てるようにすることが目標です。道具は使い手次第で価値が決まります。生成AIという強力な道具を前にして、人間側が受け身・無知ではコンヴィヴィアリティは実現しません。
- 透明性とガバナンスの強化:モデルの訓練データやアルゴリズムの透明性を可能な限り高め、外部監査やユーザーのフィードバックを取り入れる仕組みを作ることも重要ですmedium.com。また、データ提供者の権利を尊重し、コミュニティ主導のデータガバナンス(データ信託や協同組合モデルなど)の導入によってmedium.com、AI開発が一部企業の都合でなく社会全体の合意に基づいて進められるようにすることが望まれます。これは「搾取でない非侵略的な技術」を育てる取り組みでもあります。
- 「人間中心」の原則堅持:最後に忘れてはならないのは、どんなにAIが高度化しても人間の尊厳と主体性を中心に据えるという原則です。イリイチの問いかけた「人間はどのように技術と共存すべきか」というテーマconvivial.onlineは、AI時代においてますます切実になっています。私たちは便利さの代償に人間性を手放すことがないよう、技術の設計思想や使い方の哲学を磨いていく必要があります。AGI時代が到来するなら尚更、技術開発者だけでなく哲学者・倫理学者・市民が交えて社会的対話を行い、「共に生き生きと生きる」ための道具とは何かを問い続けることが求められるでしょうideasforgood.jp。
コンヴィヴィアリティとは単なる技術論ではなく、人間らしい豊かな生の在り方に関わるビジョンです。生成AIという新たな道具を我々の社会が手にした今こそ、イリイチの思想を参考にそのビジョンをアップデートし、自律性・創造性・連帯感に満ちたテクノロジー利用を実現していくことが重要だと言えるでしょう。convivial.online私たち一人ひとりが主体的・創造的に参加できる未来のために、生成AIを真に「コンヴィヴィアルな道具」とする取り組みは始まったばかりです。
参考文献・出典(一部):
convivial.onlineブログ「コンヴィヴィアルな道具|Tools for Conviviality」convivial.onlineconvivial.online
イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』(1973年)渡辺京二・渡辺梨佐訳, ちくま学芸文庫.convivial.onlineconvivial.online他
Benedek Fulop, Another AI is possible? (2023)medium.commedium.commedium.com他
成井弦「資本主義後の新たなビジネスモデルはオープンソースムーブメントで築かれる!」(2024年)bold.ne.jp
Stable Diffusion解説記事 (2023)apiumhub.comapiumhub.com
William Hasselberger & Micah Lott, Why AGI could not be (just) a tool (2025)ucp.ptucp.pt