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コンヴィヴィアルな道具|Tools for Conviviality

 このブログのテーマである、「コンヴィヴィアリティ」という概念に関する、私なりの理解をまとめています。恥ずかしながら、研究者ではない一般人の理解と寛大な御心でご覧ください。理解が深まるにつれ適宜アップデートしたいと考えています。
 なお、この文章をまとめるにあたっては一部、生成AIを利用しています。(Claude3.5 Sonet)
参考文献
・『コンビビアリティのための道具(Tools for Conviviality)著:イヴァン イリイチ 翻訳:渡辺京二、渡辺梨佐(ちくま学芸文庫)』

1.理解のまとめ

『コンヴィヴィアルな道具(Tools for Conviviality)』で、著者は、巨大化した制度や技術が人間を受動的な存在に押しやり、コミュニティや個人の創造性を疎外しているという視点に立って、そうした状況を転換するための「人間中心の道具(システム・技術)」の在り方を提案しています。

 現代社会においても、ITやAI、グローバルな資本主義などの大規模システムに翻弄されがちな私たちにとって、大変示唆的な内容を含んでいると考えます。私にはこの本を読み解くのは簡単ではありませんでした。私の理解と実践にも誤りがあると思いますが、「人間はどのように技術と共存すべきか」「社会をどうデザインすべきか」という根本的な問いが本書の核心と捉え、日々考えたことや実践したことを記録していきたいと思います。

2.要旨

(1)コンヴィヴィアルな道具とは何か

  イリイチが言う「コンヴィヴィアル(convivial)な道具」とは、人間が自由に操作し、創造的に活用できるものでありながら、他者との協働や自発的な行動を促す、いわば「人間らしい生活を可能にするための技術・制度」を指します。 反対に、近代社会において大規模化・専門家支配へと発展していく道具(制度や機械・インフラなど)は、人々から自己決定権や相互扶助の力を奪い、受動的にしてしまうと批判しています。

(2)「産業化による道具の暴走」への警鐘

  工業化やテクノロジーの進歩が進むにつれ、人々が生活を営む上で必要な技術や手段は巨大な組織や専門家によって管理・提供されるようになりました。しかし、その結果、生活者自身が主体的に道具を制御する能力は奪われ、生活基盤を専門家や制度に依存せざるを得なくなったと指摘します。 このような「道具の暴走」は、医療・教育・交通・エネルギーなどのさまざまな分野で広がっており、人々の自立やコミュニティの結束をむしろ弱めてしまうとイリイチは強く訴えています。

(3)新たな社会設計の方向性

 イリイチは「大きな技術や制度からの自立」「地域やコミュニティレベルでの連帯と協力」「個人の創造性や自発性の回復」を軸とした社会の再構築を求めました。 そのために必要となるのが「コンヴィヴィアルな道具」であり、人々が自ら学び、互いに協力しながら、使い方や改良方法を工夫し、必要に応じて拡張や修復を行える「適度な規模の技術体系」であると説いています。

3.時代背景(by Claude3.5 Sonet)

(1)1960〜70年代の社会状況

1960年代から70年代にかけて、先進国を中心に高度経済成長や急速な技術発展が進行しました。その一方で、ベトナム反戦運動や公民権運動、学生運動など、社会的・政治的な変革を求める動きも活発でした。 環境問題も大きな関心を集め始めた時代であり、1972年にはローマクラブの『成長の限界』が発表され、経済の無制限な拡大に対して疑問を呈する声が強まります。

(2)巨大化する制度や技術への批判的視点

近代工業社会や国家による大規模システムは、経済効率や大量生産を追求するあまり、人間やコミュニティの視点が置き去りになりつつありました。イリイチが強く批判したのは、医療や教育といった本来「人間の幸福のため」にあるはずの制度が肥大化し、人間が使いこなすどころか、逆に制度に「仕えさせられている」ような状況です。その批判は当時多くの知識人や市民運動に共有されていた問題意識とも重なるものでした。

(3)イリイチの思想への注目

イリイチはカトリック司祭としての経験を持ち、中南米各地での牧師活動を通じて、先進諸国による一方的な「開発」や「援助」が、現地コミュニティの自立を妨げてしまう現状を目の当たりにしてきました。そこから、「人間の主体性を奪わない技術」「草の根レベルでの自治・自立」がどうあるべきかを探究し始めます。 こうした問題意識は、当時の社会的潮流とも相まって多くの読者を獲得し、イリイチの著作は社会批判の文脈で大きな影響を与えました

4.生成AIについて

 本ブログでは、一消費者としての立場で様々なデジタルツールの利用についても触れていますが、そもそも大規模言語モデルをはじめとする高度な生成AIなどが「コンヴィヴィアルな道具」となり得るかどうかは、技術そのもの以上に「どのように導入・使いこなし、どのような社会的制度・コモンズをつくるか」にかかっているものと考えます。

本ブログを運営するにあたって、常に以下の問いを念頭に日々を綴っていきたいと思います。

①巨大企業や特定の専門家が技術を独占するのではなく、多様な主体が参加できる仕組みやルールは設計されているか。

②その技術や仕組みがどの程度「公開」され、誰でもアクセスし、理解し、修正・改良できるのか。

③利用者はその仕組みをどの程度把握し、主体的に活用できるか。あるいは活用法の教育や情報共有は進んでいるか。

④そのツールによって人間同士のつながりや協働が促進されるか、むしろ疎外されないか。